「それ、もう若い人のもんやしな」
そんな言葉を、いつの間にか
自分に向けて使うようになっていた。
昔なら、ちょっと気になったら、
とりあえずやってみていたこと。
今は、考える前に外してしまう。
無理やろ。年やし。今さらやし。
頭では自然な判断のつもりやけど、
どこかで引っかかる感じが残る。
年齢を理由に、選択肢から外していたこと
たとえば、ラフティング。
職場の同年代の仲間と行ったことはある。
楽しかった記憶も、ちゃんと残っている。
それでも次に話が出たとき、
真っ先に浮かんだのは、
楽しみよりも別の感情やった。
「怪我したら恥ずかしいな」
怪我よりも怖かったもの
体力が持つかどうかより、
楽しめるかどうかより、
先に出てきたのは、その不安。
もし怪我をしたら、
一緒に行っている仲間に
迷惑をかけるかもしれへん。
足を引っ張る存在になるかもしれへん。
本当は、弱いところを見せたくなかった。
せめて、足を引っ張らない
自分でいたかった。
「申し訳なさ」が残る記憶への恐れ
もし実際にそうなったら、
そのあとずっと、
申し訳なさが残る気がした。
時間が経っても、
ふとした瞬間に思い出してしまう。
「あの時、無理せんでよかったんかな」
そんなふうに、頭の中で
何度も再生される。
その記憶が、
次の挑戦をやめる理由になる。
安全な選択が増えていく
気づけば、「やめとく」という判断が
増えていく。
安全なほう。失敗しないほう。
誰にも迷惑をかけへんほう。
表向きは、何も問題ない。
むしろ、大人として
正しい選択に見える。
静かに縮んでいく世界
でも、その判断を積み重ねた先で、
ふと感じることがある。
世界が、静かに縮んでいく。
新しい話題が増えへん。
初めての場所に行くことも減る。
「最近どう?」と聞かれても、
大きく変わった話が出てこない。
別に、不満があるわけやない。
平穏で、安全で、落ち着いている。
ただ、昔より少しだけ、
世界との距離が広がっている気がする。
それは、年齢のせいだけやないかもしれへん。
一度だけ、外していた選択肢を戻してみた
ある時期から、「やめとく」の前に、
少しだけ止まるようにした。
「なぜやめようとしているのか」を、
一度だけ自分に聞いてみる。
ラフティングの話に戻るなら、
結局その年、参加した。
怪我はせえへんかった。
足を引っ張ることもなかった。
それよりも残ったのは、
「あ、まだできるやん」という感覚やった。
その感覚が、次の挑戦を
少しだけ軽くしてくれた。
無理をしたわけでも、
若作りをしたわけでもない。
ただ、「やらない理由」を
一度だけ脇に置いただけ。
失敗の記憶より、やらなかった記憶のほうが残る
失敗したときの恥ずかしさが怖くて
動けへん気持ちは、よく分かる。
ただ、気づいたことがある。
失敗したときに「恥ずかしいな」と思うより、
「やらなかったな」という後悔のほうが、
長く残る。
失敗の記憶は、時間が経てば薄れる。
でも、やらなかった記憶は、
なぜかずっと残る。
もちろん、体力の問題は本物。
そこは否定せえへん。
ただ、体力が理由で「できないこと」と、
プライドが理由で「しないこと」は、
別物やと思っている。
自分はどちらなのか、
一度だけ正直に向き合ってみると、
少し視界が変わるかもしれへん。
まとめ
50代で挑戦が減っていくのは、
能力が落ちたからやなくて、
「断る理由が増えた」から
かもしれへん。
何かを「年やから」と外したときに、
それが本当に自分の本音なのか。
それとも、世界が縮んでいくのを、
少しずつ受け入れているだけなのか。
その違いだけ、一度立ち止まって
考えてみてもいいと思う。
世界が縮んでいく感覚は、
誰かに言われへんでも、自分で気づく。
それに気づいたなら、まだ変えられる。
大きな挑戦やなくていい。
「やめとく」の前に、
一秒だけ止まってみる。
それだけで、
少し違う一日になる気がしている。
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