問題はない。でも、選び直してもいいと思えた
50代に入ってから、生活がつらくなったわけでも、無理をしていた自覚があったわけでもない。
仕事は普通に回っているし、家のことも大きな問題はない。体力的にも、まだ何とかなる。
ただ、あるときふと、こんな考えが浮かんだ。
「これ、別に、ここまで自分で抱え込まなくても、いいんちゃうかな。」
不満があったわけでも、限界を感じていたわけでもない。
「問題はないけど、選び直してもいい」――そんな、ごく静かな気づきだった。
晩ごはんで生まれた小さな疑問
そのきっかけになったのが、晩ごはんだった。
我が家は共働きで、料理は私の担当。
これまでは自然と、
- 少しでも節約したい
- できるだけ体にいいものを
- 外食や惣菜は控えめに
そんな考えで、晩ごはんは自炊するもの、という前提でやってきた。
でも、娘が家を出て、夫婦二人の生活になった頃から、ふと、こんな疑問が浮かぶようになった。
「晩ごはんって、毎日ちゃんと自炊する必要、あるんかな。」
「ラクしていいの?」という、自分へのツッコミ
正直に言うと、この考えにブレーキをかけていたのは「ラクしていいの?」という自分の声だった。
共働きで家事分担をしている中で、妻は洗濯やアイロンがけを自分でしている。
それなのに、自分の担当である料理を外食や中食に頼るのは、自分だけ楽をしているような気がした。
ただ実際には、外食をすれば洗い物は減るし、妻が文句を言うこともない。むしろ外食を喜ぶことの方が多い。
問題は何も起きていない。引っかかっていたのは、自分の中の役割意識だけだった。
「無理しなくていい」と思えた、現実的な前提
もう一つ、ここは正直に書いておきたい。
この選択って、気持ちだけで決まる話じゃない。
金銭的な余裕がまったくないなら、自炊をせざるを得ない。これは現実としてある。
でも逆に言えば、生活にほんの少しでも余白ができてきたなら、晩ごはんを楽にするくらいの浪費や無駄遣いは、してもいい年齢になったんちゃうか――そう思えるようになった。
これは「自炊しなくていい」という主張じゃない。
「選べる立場になったなら、楽な方を選んでもいい」という話だ。
自炊が使っていたのは、時間よりも「考える力」だった
もう一つ気づいたのは、自炊が使っているのは作る時間だけじゃない、ということ。
- 今日は何を作るか
- 冷蔵庫に何が残っているか
- 明日の予定との兼ね合い
- 何を買い足す必要があるか
こうしたことを、仕事中や移動中にも、無意識に考え続けている。
自炊は、時間以上に「考える力」=脳のリソースを日常的に使っていた。
「今日は自炊しない」と決めた日の変化
試しに、「今日は自炊しない」と決めた日があった。
時間が浮くのは当然として、それ以上に感じたのは頭がすっきりした感覚だった。
晩ごはんのことを考えなくていい。段取りも、献立も、買い出しも考えない。
その分、
- 仕事に集中できる
- 平日の夜に趣味を楽しめる
- 学び(資格勉強・動画学習)に使える
時間を得したというより、「考えなくてよくなった」感覚が近い。
効率化よりも、「選ばなくていい状態」を作る
昔から、効率化は意識してきた。
- 早く済ませる
- まとめてやる
- 合間に考える
でも最近になって、もう一つの選択肢があることに気づいた。
それは、最初から考えなくていい状態を作ること。
効率化よりも、まるごと手放す(削除する)という選択の方が、50代には効く場面がある。
50代は「脳の使い道」を選べる年代
10年前の自分には、「脳のリソース」という概念はなかった。
「別に、何かの合間に考えたらいいだけやん」って思っていた。
でも最近、「自分の時間はただではない」「時間は無限ではない」ということを意識しだしたら、考え方が変わった。
効率化は昔から考えていたけど、「まるごと削除」という発想はなかった。
時間・体力・お金。
この3つがそろい始める50代は、どこに脳を使わないかを選べる年代なんだと思う。
具体例は、別の記事で
この考え方は、晩ごはんだけの話じゃない。
掃除、洗濯、食事、日々の段取り。生活のあちこちで「考えなくていい状態」を作ると、余裕は少しずつ生まれる。
私の場合は、次の3つが大きかった。
・ロボット掃除機は贅沢じゃない|50代からの“時間を買う投資”とは
・洗濯に毎朝1時間奪われていませんか?|ドラム式で“自由な朝”を取り戻す方法
・セカンド冷凍庫は“贅沢じゃない”。50代共働き夫婦が気づいた「時間と余裕を買う家電」
おわりに
50代は、無理をやめる年代じゃない。
無理しなくていいことを、自分で選べるようになる年代だと思う。
少しの浪費や無駄遣いは、サボりじゃない。
これからの時間をちゃんと楽しむための準備。
そう思えるようになってから、毎日は静かに、でも確実に軽くなった。

