【認知症シリーズ第5話】家で守れなくなった日──転倒、そして施設へ

家族と仲間
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散歩中の小さな段差。まさかの転倒は、静かに訪れた

その日は、いつもの朝の散歩だった。
母が日課にしていたコースを歩いている最中、
ほんの小さな段差に足を取られて転倒した。

救急車を呼ぶほどではなく、
母も「ちょっと打っただけや」と笑っていたので、
自宅に戻って様子を見ることにした。

母はそのまま普通に過ごし、
痛みをほとんど訴えなかった。
もともと痛みに強い人だったのが裏目に出た。

しかし夜になり、膝が急に腫れて動けなくなった。


病院でわかったのは“膝のお皿の骨折”だった

急ぎ病院へ連れて行くと、
レントゲンを見た医師から淡々と言われた。

「お皿(膝蓋骨)が割れています。入院ですね。」

母は状況を理解できず、
「いつ割れたん?」
「帰るんちゃうの?」
と何度も聞き返していた。

痛みをあまり感じていなかったせいで、
深刻さが本人に伝わっていなかった。


入院初日から、母の混乱が一気に高まった

入院すると、母はすぐに不安になった。

「なんでここにいるん?」
「家に帰る」

夜になるほど混乱は強くなり、
点滴を抜こうとしたり、
ベッドから降りて歩こうとしたり。

骨折しているのに、
“動ける”ことが逆に危なく、
病棟の廊下を歩いてしまうこともあった。

看護師さんが何度も呼び止める。
けれど母は状況をつかめない。


入院3日目、主治医からの言葉は“病棟の限界”だった

入院3日目の朝、主治医から連絡があった。

  • 夜間ずっと動き回る
  • 転倒リスクが高すぎる
  • 看護師がつきっきり
  • 他の患者への安全が確保できない

そして最後にこう言われた。

「ご家族に、一度連れて帰っていただけないでしょうか」

丁寧だったが、実質的には
“この病棟では対応できない”という意味だった。

私も弟も、その現実を受け入れるしかなかった。


家に戻ると落ち着いたが、“一人では生活できない”のが明らかだった

自宅に戻ると、母は少し落ち着いた。
やはり家の安心感は大きかった。

けれど現実は厳しかった。

・トイレまでの移動が危険
・骨折を忘れて動こうとする
・当然、料理はできない
・夜になると混乱が再発

母を一人にしておくのは、
危険すぎた。

私と弟は交代で 泊まり込み体制 にした。
夜中のトイレも、何度も付き添った。


2日間で悟った、“家族だけでは守れない瞬間がある”

泊まり込みを始めて2日目、
弟が言った。

「……これ、続けるの無理やな」

私も同じだった。

母を危険にさらしたくない。
でも家族だけの体制では限界がある。

家で看る=正義
ではないことが、やっとわかった。


急遽、施設を探し、2日後にようやく入所が決まった

地域包括支援センターやケアマネに連絡し、
事情を説明すると、
「お母さまの状態なら、すぐにでも受け入れが必要です」
と言われた。

何件も断られたが、
ようやく「2日後なら入所可」という施設が見つかった。

安堵と寂しさが入り混じった気持ちだったが、
母が安全に過ごせる場所が見つかった
その一点だけは本当にありがたかった。



入所は準備していたけれど、想定外のタイミングで訪れた

母の入所は、落ち着いた段取りではなく、
骨折からの入院混乱、病院からの「対応不可」の通告、
そして自宅での泊まり込みを経て、
急遽バタバタの入所となった。

半年前から施設見学だけはしていたので、
「無理やり感」はなかったが、
まさかこんな形で入所するとは思っていなかった。


母は“ここはデイサービス”と思い続けていた

入所して数日で落ち着くわけではなかった。
むしろ最初の1ヶ月は、ほぼ毎日のように電話がかかってきた。

「私はデイサービスから帰られへんの?」
「そこ、デイサービスやないで。骨折のリハビリ病院やで」
「……あ、そうなんや」

このやり取りを夕方になるたびに繰り返した。


夕方症候群も重なり、帰宅願望は強かった

夕方になると不安が強くなり、
「帰りたい」「タクシーで帰る」と怒る日もあった。
そのたびに施設のスタッフが丁寧に対応してくれた。

「ごはん食べてからにしましょう」
「今日はここでゆっくりしましょうね」

スタッフの声かけのおかげで、
なんとか落ち着く日が続いた。


生活面はしっかり守られていた。食事も毎食完食

不安の電話は多かったが、生活は安定していた。

・毎食しっかり食べる
・リハビリにも参加
・夜間の見守りもしっかりしてくれる

家では火の消し忘れや転倒の危険が常にあったが、
施設ではその心配がなくなった。

生活の安全が“仕組み”の中で守られている安心感は大きかった。


1ヶ月が過ぎて、電話の回数がゆっくり減っていった

入所後1ヶ月が経つと、
毎夕の“鬼電”が少しずつ減ってきた。

完全になくなったわけではないが、
少しずつ落ち着き始めた。
施設の生活リズムに馴染んできたのだと思う。

スタッフから
「お気に入りの職員さんができたみたいですよ」
と聞いたときは、正直ほっとした。


生活は落ち着いたが、会話は“自宅のままの時間”が続いた

面会に行くと母は笑顔だが、
話す内容は現実とは一致しない。

「今朝な、朝ごはん作って、お風呂掃除して、買い物して…」
「そうなんや。忙しかったんやなぁ」
「そうそう。それでデイサービスに来たんや」

母にとって“自宅にいる”という設定は続いたまま。
それを否定する必要はなかった。

大事なのは、
安心して会話ができることだけだった。


“家にあるうち”の時間は、過ぎてから一番濃かったと気づく

入所が決まった日、私は淡々と荷物を運んでいました。
判断は正しかったと、自分に言い聞かせながら。

それでも一週間後、実家で一人になった夜、ふと胸に来たのは、
“家で母と過ごせた時間は、もう取り戻せない”という感覚でした。

家にあるうちは、当たり前すぎて、その濃さに気づきませんでした。
食卓を囲む。一緒にテレビを見る。台所の音を聞く。
そんな”ただの日常”が、いちばん濃かったと、過ぎてから気づきました。

50代の親との時間は、家にいるあいだが一番濃い。
あの数年、もっと一緒の時間を取っておけばよかった、というのが今の本音です。

これから施設で過ごす母とは、また別の形で時間を使っていく。
形が変わっても、母との時間は、まだ続いている。

まとめ

転倒、入院、そして入所。流れに身を任せるうちに、母は家を離れていきました。

あの入院中、私がやったのは、病院のソーシャルワーカーに相談したことと、翌日から施設の見学リストを作り始めたこと。
そして、「家で介護を続けられるか」を冷静に考えたことでした。
点滴を抜こうとした話、夜中の混乱、病院スタッフへの負担──家に一人で置くことのリスクが、入院で具体的に見えてきました。

「家で守れる限界」は、弱さじゃありません。
家族として精一杯やってきた結果、見えてきた一つの分岐点。
ソーシャルワーカーの「家では守れる限界がある。それに気づくのが適切なタイミングです」の一言が、気持ちを整理してくれました。

ただ、家で母と過ごせた時間は、もう取り戻せない。
家にあるうちは、当たり前すぎて、その濃さに気づかない。
食卓を囲む。一緒にテレビを見る。台所の音を聞く。そんな日常が、いちばん濃かったと、過ぎてから気づきました。

50代の親との時間は、家にあるうちが一番濃い。
形が変わっても、母との時間は続いている。
使えるうちに、ちゃんと使う──それが、私の今の答えです。

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